3か月ぶりの息子たちとの再会。 相変わらずまっすぐに再会を喜んでくれた長男。 相変わらず最初の方は不機嫌で、話しても返事してくれない次男。
今回は、次男の態度が軟化するのが早かった。 2日目からすでにまとわりついてくれ、一生懸命話しかけてくれる。 その舌足らずで、必死の会話がうれしくてたまらなかった。
先日、日本からのゲストとともに街に行った時、その次男をだっこしていて、何もないところでこけてしまった。その時とっさに出した手が息子の頭に届かず、次男は可哀そうにも頭をまともにぶつけてしまい、私はそのまま足をねじってねじってしまった。 一瞬の出来事だったが、とっさにかばえなかった自分を呪い、また、あまりの衝撃に私を見つめながら、しばらく泣くことすらできなかった息子の顔を見入った時間の長かったこと!
幸い、次男は無事大声で泣き始め、頭の傷もなく、事なきを得た。 でも、体力の限界と、病気との付き合い方を考えさせられる。何もないところで足がもつれるとは、、、、
帰宅後の父親への次男からの第一声は、
“お母さんが僕を落したんだよ〜”
だったそう。
でも、いままでのような微妙な感情の行き違いも、駆け引きもない。 この3年駆け引きだらけの、愛情の行き違い。一方通行の愛は、やっとなんとなくあるべき道に近付いて来た気がする。
人生と同じ、愛情にも逆戻りはない。 積み重ねることしかできない。 寄り添い、離れ、時には反発しあい、平行線をたどりつつ、時には交差する。
次男を落としてしまった時、彼は確かに私の顔をしっかり見つめて、そのあとありったけの力で、抱きついてくれた。 自分を落とした母親に向って、彼と私にとってひさしぶりに愛情が交差した瞬間だったかもしれない。
どこにいてもいい。何をしてくれてもいい。ただ、元気で、いい笑顔の彼らであってほしいと願う今日この頃。 私もいい笑顔の母であればと、、、、
- 2008/08/28(木) 23:37:42|
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いつもながらに、出国準備はぎりぎり。
暑い夏に、冬の服をスーツケースに詰めるのは、とっても億劫なもの。
ついでに、今回は仕事とはいえ、なんだかすでに早く帰国したいモード。
帰国を待っててくれる人は出来たし、自分も初めて早く帰国したいと思い、心の平安も得られてるのに、一つ変わらないこと。
それは、明後日家を出るときは、やっぱり一人。行っておいでと言ってくれる人も、行ってきますを言える人もいない。
寂し〜〜〜〜〜い!
しばしの別れの時、最後のぎりぎりまでまで、別れを惜しんで一緒にいる人。
さらっと、適度な時に笑顔で別れる人、
当日は辛いからと、あらかじめ会わない人。
見送り方はそれぞれ。 見送られるほうは、最後まで、、、と思うのが辛くて見送れない人もいるらしい。
自分は最後の一瞬まで、別れを惜しむが、人によれば、最後の瞬間は、残されるほうはつらいから、わざとその場にはいない人もある。
どっちが行く人は、確かに環境も変わるからいい。 でも、残された人は、確かに思い出の場所や物を引きづりつつ、帰りを待つ。 やっぱりつらいかも。 遠距離恋愛の人はきっと、しょっちゅうそんなあ後ろ髪惹かれる別れを経験する。 やっぱり私には、遠距離は無理な気がする。
心配はされてても、行く方としては、行ってきますくらい言いたいというのは、厚かましいのだろうか。
行く人、待つ人、空港はいろんな別れと出会い、再開の場所。
今回も誰に会うことなく、一人で平然とゲートに入る私。
寂しくないやい!!(寂しいって、、、)
- 2008/08/15(金) 21:51:29|
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もうすぐ出国する。仕事兼、プライベートな用事で。
いつもは、日本に帰っても一人だから、滞在期間は最大限。今回も最大限。約1か月の工程である。
今回は取材も含めて、忙しい前半に、あとはあちらに家のメンテに追われる日々。 たぶん疲労困憊して帰国するはず。
毎度のことだけれど、唯一変化したこと。 それはあちらでの滞在中の安否を心配してるれる吾人がキトクにも現れたこと。
ふだん、日記などで書く、あちらでの家や庭のメンテは実はかなりいのちがけ。一つ間違えばかなりな怪我、下手したら死ぬこともあることばかり。今まで、リスクは知っていても、事故を恐れることはなかった。
今回、あちらでの生活をちょっと親しい友人に初めて話したら、
”それって、結構危険なことするのに、怖くないの?”
と聞かれて、
”別に、怪我したところで、自分が痛いだけ、誰が心配するでなく“
とあっさり言ってのけてしまった。人間死ぬ時は死ぬ。
それが先日、あちらでの生活のことを話した友人が、黙って手渡してくれた物で、一変してしまった。
それは、認識票。よくアメリカの兵隊さんが戦争中、首からぶら下げてるあれである。
”あっちで滞在してる間、お守りとして”
ということで、首から自分では外れない様に、付けて頂いた。 もちろんその人の持ち物だから、私を認識するものではないが、話を聞けば、いつもその認識票は、命がけで冬山にこもる時に、その人がつけているものだそう。 夏はしないが、冬にもし遭難して、白骨化して、のちに発見されても、自分とわかるようにつけていらっしゃるらしい。今までまだ認識票としての役目は果たさずに無事でいるから、私にも無事に帰国するようにとの、縁起担ぎでお借りした。 もう10年以上その人の無事をカウントしている。 それまでの生死をかけた記憶と思い出の詰まったものらしい。
首に掛かるずしりと重い。 その重さよりも、無事にと祈ってもらえる気持ちのほうが、もっとずしりと心にのしかかる。 私に何かあれば、その認識票が持ち主に戻るようになってるので、もし海外で何かあっても、安否がわかるという。
はじめて、無事に帰国して、首から無事その人の手で認識票が外されることを願った。今まで帰国なんて楽しみではなかったし、逆に重荷だった。 でも、今回は無事に帰らなければと、思えるようになった。 人を思いやる心をひしひしと感じ、恋愛や、浮ついた気持ち以上の、自分を思いやってくれる人への感謝。
今までめちゃをして作業にも恐怖心がなかったのに、初めて慎重に物事を終えようという気になったことへ感謝。 帰国が初めて楽しみになった。 その人の10年以上の思い出をつづった認識票を首にたずさえ、ひと時も肌から離れることなく、新しく一時的に私の時間を刻む認識票。滞在中の無事を祈る気持ちと共に新たな思い出を静かに刻む。
9月に、認識票を返す時には自分の感謝の気持ちも添えて、その人へ返したい。
- 2008/08/14(木) 23:53:27|
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昔、とても尊敬していた高校の時の英語の先生がおっしゃった.
"将来、君たちが大きくなって、それぞれに生涯の伴侶を見つけた時は、ぜひ、たくさんのお互いの友人たちの輪の中で、お互いの持ってきた友情を分かち合ってほしい。 その人の友人を見ることはその人を知ることにつながるから。”
と。そして、
”決して日本の今までの習慣のように、愚妻、ふつつかな、など自分の伴侶をへりくだって紹介しないでほしい。自分の愛する人なのだから、プライドを持って、”この人は私のBetter Halfです”と言って微笑めばよい。それが恥ずかしく思えるような相手なら、その人はきっと、君たちにとって良い伴侶とはならないだろう”
とも。
素敵な先生でした。 まだ高校1年生。彼氏すらいなかった私には、大人の世界のことに思えた。 でも”Better Half"という響きは,幼かった私にもとても素敵に思えた、
“もう半分の、さらに良き自分”
とでも言うのか。 自分の伴侶をそう呼べるほどに信頼し、プライドを持って呼べたらきっと、すごく幸せだろうと、おぼろげに思ったり。
大人になって、その頃よりも少しはいろいろ経験し、人に出会い、今一度、彼の言葉をふと思い出した。
“もう一人のよき人”
互いの存在を認め合い、高めあい、信頼し、寄り添う。 一生のうちで、そんな人に出会えるだけ、自分は素敵だろうか?
相手に幻滅するとき、それは自分自身の姿ではなかろうか?
相手の存在にイライラする時、それはエゴではなかろうか?
などと、考えてゆくと、謙虚でない自分が浮かび上がる。
誰かを好きになった時、自分がその人に似合うだけ素敵でいたい。 引け目も、諦めも、あせりもない、本当に均等な思いで出会える自分でいたい。 その出会いは、同性の仕事のパートナ−かも知れないし、親友になる人かもしれないし、夫、または妻になるべき人かも知れない。
信じられる人が少ない今のご時世で、自分の分身にすらなぞらえることのできる人と出会うのは至難の業。でも、会えるなら会ってみたい!!
そんなこんなを考えながら、先の言葉を残されたわずか数ヵ月後に、あっけなくなくなってしなったその先生は、学んだ私たち皆にとっての”よき大人のモデル”だった。
数カ月しか受けられなかった精一杯だった、彼の授業を思いおこしながら、今年の夏は不思議と彼とのお別れの式に向かう途中、汗をかきながら、実はみんな涙も流していたことを思い出す。
先だった魂に出会えるというお盆、心穏やかにその人を思えば、再会できる気がする。
- 2008/08/12(火) 19:16:01|
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人を信じる、っていうのは、本当に不安定な要素だらけの中に、成り立っている。 なぜなら信頼関係は経験と勘がほとんどだから。 ビジネスの場合は、はたから調べようもあるけど、個人的な関係では、共通の知り合いから
”あのどんな人?”
くらいしか聞けない。 あとは付き合ってみて、お互いに築くもの。それもお互いの別々のモラルや”標準”に合わせて。
どのくらいお互いを知っているかにも一概に依らないし、深さにもよらない気がする。
仲が良かったからこそこじれると逆に強烈にだましを食らうことも。
信頼ってなんだろう????
相手を信じているだけけでは済まされない。 信じてお互いを頼れば、そこに確認を取らない、何となく、の取り決めが出来上がる。 けれど人間は人を疑ってばかりもいられない。
ある友人が、
“人を信じ過ぎては、いけない。 距離を誰に対してもとらないと泣くのは自分だよ”
と貴重なアドバイスをくれた。 私はお人よしだから、基本誰でも信じてきた。けれど友人の意見は極めて正しく、やっぱり泣きはしなかったが、大変いやな思いをしたこともある。
怖い怖い人、それでもその中で生きてゆく私達、本当に信じられると確証が得られる人に長い人生で何人に出会えるのか?
今信頼できていても将来はわからない、 そして信頼していた人からの手痛い、裏切りは身に堪える。
いやな世の中になったと嘆くのではなく、改めて自分と人との考えの違いをかみしめて、慎重にゆかねばと今更ながらに、学ぶ。
あなたは、誰の何を信じているのか? 問うてみた事はありますか?
私は、問う前に信じていたかった。
- 2008/08/11(月) 15:35:41|
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